chatan


自宅からのサンセットの美しさよ。

GW中、死ぬほど仕事したが、かなり本も読んだ。







『世界の教育はどこへ向かうのか』、読了。

教育者の端くれとして、「教育はどこへ向かうのか」は興味深いテーマ。

著者は、文科省で長年勤務され、その間に教育委員会やOECD(経済協力開発機構)などへも出向したことがある方で、本書は国連やOECDなどの各国の議論も踏まえ、これからの教育を考察したもの。

本書で取り上げられているのは、以下の5つの論点である。

1.個人の尊厳を大切にしていくべき(第1章)
2.主体性を発揮すべき(第2章)
3.認知能力に加え非認知能力を伸ばすべき(第3章)
4.「探求」を取り入れるべき(第4章)
5.本質的な思考力を磨くべき(第5章)

このように論点だけ見れば、真新しさを感じないかもしれないが、日本の教育現場でそれが本当に達成できているのかといえば、「NO」である。

例えば、「個人の尊厳を大切にしていくべき」なんて、当然のことと思われるだろうけど、教育現場で、教育者は子供たち(学生たち)と対話をしたり、子供たち(学生たち)の考えを聞いたりということをせず、大人の考えを押し付けていないか。

学校の中で主体性を発揮できるのか、今のカリキュラムで非認知能力が伸びるのか、そもそも「探求」とは何なのか、今の過密なカリキュラムの中で本質的にものごとを理解する余裕があるのか。

これらの論点を一つ一つをみていくと、色んな課題が浮き彫りになっていく。

日本は従前から「詰め込み教育」が行われてきて、それは今も変わらない。分厚い教科書を(学習の目的も教えられぬまま)ひたすら暗記させられ、暗記力をテストされ、順位や偏差値を付けられ、進路が決められる。

学習指導要領に従い、教科書を隅から隅まで「浅く広く」教えざるを得ないという「カリキュラム・オーバーロード」という問題を抱え、教育者も疲弊し、子供たちも疲弊している。「探求」したり、本質的にものごとを理解する余裕はないのだ。そこに、英語教育、金融教育といった新しい課題を追加していっても、リテラシーの向上には結びついていない(P173参照)。


本書には、新しい教育の姿も示されているが、それも参考に、私の意見をいくつか。



まず、日本の教育は画一的で伝統的なカリキュラムを消化することに必死であるが、そのカリキュラムが「オワコン」であり、子供たちの可能性の芽をつみ人生の可能性を狭めているとしか思えない。そもそも子供たちの能力、興味、発達速度はバラバラであることを前提に、子供たちの個性や能力を伸ばすべきである。教科書の内容(コンテンツ)よりも各人の能力(コンピテンシー)にフォーカスすべきである。

「知識」を詰め込むことも古臭い学習法であり、大学入学共通テストや大学入試というシステムも根底から見直す(もしくは廃止する)べきである。

また、東京都初の中学校の民間人校長となった藤原和博さんが、著書『学校がウソくさい』(朝日新書、2023年)でも述べているが、学校教育をDXすべきである。文部科学省の検定を経た教科書自体がオワコン化しており面白くない上に、授業の大半が聞くに値しない。YouTubeやオンライン授業を取り入れれば、教員不足も、不登校も、あらゆるものが解決できる可能性がある。

子供たちは自分のアシスタントのようにAIを使いこなしている。自分に適した学習法をAIから提案を受けることもできる。本書でも書かれているが「これまで学校や教師が担っていた役割のほとんどを、AIが代替してくこと」(P198)になり、「学校や教師の役割は徐々に融解し、やがて消滅していく」(P199)というシナリオがOECDでも示されている。

著者は、AIの時代でも学校という存在がなくなることはないと述べているが(P199)、今のままでは学校の存在意義はなくなると思う。学校というものが(会社組織と同様に)集団的組織の中で忠誠心、同質性、協調性を求める昭和的価値観から脱却し、個人のウェルビーイングを達成するという場(プラットフォーム)へ変革しなければ、生き残ることはできないのではないだろうか。

小・中学校における不登校児童生徒数が34万人を超え、100人に3人以上が不登校児童になっている。これは、個性を無視し個性を叩き潰す横並び教育、昭和生まれの大人達の旧来の価値観の押し付け、理解不能なブラック校則、教科書を読むだけの授業、ググれば分かる知識の詰め込み、趣旨の分からない宿題、暗記力を試すだけの期末テスト・大学受験、さらには、教師や親による子へのコントロール等々・・・が、いまの生徒たちには「違和感」であり「異常」としか映らないのだ。不登校児童の増加を、「コロナ禍の長期化」により生活環境が変化したことを理由に挙げる文部科学省(2023年10月)には絶望するしかない。

「教育はどこへ向かうのか」の問題をいまの文科省や教育当事者が解決できるとは思えない。すべての大人たちが真剣に考えるべきではないだろうか。本書はその題材を与えてくれる。