沖縄に戻ってから、曇や雨の日が続く。結局、今年は台風が一度も沖縄本島に上陸しなかったが、先島諸島(宮古島・石垣島等)方面へ台風が向かっても、雨や風の影響は受ける。
ちょっと晴れた隙に海岸まで走りに行ったら、サーファーが集まっていた。波が高い日は多くのサーファーが集まる。それをカメラに収めようという人も多くいた。有名なサーファーなんだろうか。
雨や風がキツくても、丸一日自宅で過ごすという日は作らないようにしている。北谷はカフェが多いので、どこかのカフェにこもり、本を読んだり、本を書いたり、仕事したり、考え事したりする時間に充てる。
だいたい、この時間で何かが創り出されているような気がする。先日紹介した齋藤孝先生の『孤独を生きる』にも書かれていたが、「孤独」の時間(独りの時間)というのは絶対に必要な時間だと思う。孤独になったら死ぬ動物もいるらしいが、私は1日の中に孤独の時間がなかったら死ぬ。
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石井光太さんの『「鬼畜」の家―わが子を殺す親たち―』と『近親殺人―家族が家族を殺すとき』を一気に読んだ。深い意味はない。単に鬼畜な人間の心理に興味があり。
まず、『「鬼畜」の家―わが子を殺す親たち―』を読んだ。
読んでいて吐きそうだった。著者の取材力と文章力がすごすぎて、その現場にいるかのようだった。死体の悪臭まで臭ってきそうな感覚すらしてきた。
こどもへの虐待、暴言、暴力、暴行、育児放棄、死体遺棄など、尋常な精神じゃできないような事件が本書で取り上げられている。愛する我が子になぜそんな非情な虐待ができるのかと思いながら読み進めていたが、それぞれの親に共通する点が見えてくる。
何もかもが「行き当たりばったり」なのだ。特に女性(母親)は、セックス、出来ちゃった婚、出産、離婚、シングルマザー、貧困、風俗店勤務、セックスフレンド、家庭内暴力、育児放棄の連鎖により、最後に子供を殺害する。
著者の石井光太さんのすごい所は、このような負の連鎖の元を辿っていくのだ。その結果、虐待した親たちが生まれ育った環境の劣悪さに辿り着く。つまり、元を辿れば、加害者の父母や祖父母の歪んだ養育に原因があるのだ。我が子を殺害するというのは当然に罪であるが、本人だけが悪い訳ではなく、劣悪な環境の中で正しい倫理観も価値観も、他者への共感も、何もかもが育たなかったのだ。そうやって自暴自棄になり、荒れていった。
息子の遺体を棄て、その棄てた場所を忘れてしまったという親が本書に登場するのだが、その親にとって息子の死は「子供が飼っていたクワガタを死なせてしまったようなもの」(P255)だと表現しているくだりがある。子供は虫のような存在なのか。絶望的な気分になる。
『近親殺人―家族が家族を殺すとき』は、子供への殺害だけでなく、親や配偶者を含めた家庭内での殺人事件を取り上げている。
本書で取り上げられている事件の中にも、いくつかの共通点が見えてくる。家族のひとりが何らかの要因により精神疾患などを患ったり、引きこもりになったりし、何年にもわたり暴言を吐かれ、暴力を振るわれ、それが次第にエスカレートする中で、「いつ殺されるか分からない」という状況にまで追い込まれる。看病する側も神経をすり減らされ、精神的に限界に達し、「相手を殺すことでしか自分の身を守れない」と判断し、家族を殺害する。
話題作『母という呪縛 娘という牢獄』(講談社)を読んだ時にも思ったが、生きるとは何か、愛とは何か、罪とは何か、償うとは何か…と、多くのことを考えさせられた。
2冊とも面白い本ではないが、未知から既知へという読書の醍醐味を味わうことになった。
ノンフィクションは好きだ。