今日もいい天気。いつものコースをジョギング。
スポーツ庁による6〜79歳の男女59,000人を対象に実施した調査によると、「週1回以上運動する」という人が30〜40代でたったの約40%台、「まったくしない」という人が約25%だった。男子も女性もほぼ同じ結果。体力も過去最低水準だとか。
以前、会計士を志している学生から、「会計士に合格したら忙しくなり、読書したり、運動したり、恋人や家族と過ごす時間が取れなくなると思いますが、先生はどうやってそういう時間を確保してきたのですか?」と質問を受けた。逆に聞くが、どういう生活をしたら、読書したり、運動したり、大切な人と過ごす時間が取れなくなるのだ????
アンデシュ・ハンセン著『スマホ脳』(新潮新書)によれば、人は1日4時間をスマホに費やしているらしい。4時間あれば、ジョギングして、筋トレして、家族と夕食を一緒に食べて、読書して、ブログ書くことくらい十分できる。
習慣にしていないだけ。
習慣の先にしか結果なし。
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沖縄北谷の「和さびや」が開店して1ヶ月が経った。
前も書いたが、開店してからしばらくは来店客数ゼロいう日が何日かあるのではないか……と思ったが、お陰様でそんな日は1日もなかった。嬉しいことに、開店1ヶ月にしてリピーターも増えてきた。いい口コミも増えてきたし、Instagramのフォロワーも増えてきた。幸先良い。
今日は定休日なので、シェフと女将さんと、お祝い&反省会のディナーへ。
行きつけの「モンマルトル」へ。
「モンマルトル」へ行ってみたいというシェフと女将さんと、「和さびや」へ行ってみたいというモンマルトルのシェフをお引き合わせしたかったという名目。単に私が行きたかっただけ。
この1ヶ月、シェフのワッシーも激務だったので、ゆっくりお話ししていなかった。客として何度か食事をしに行ったが、その際も忙しそうだったので余り話ができていない。今日やっと色んな話をすることができた。やはり、直接会って対話する時間は大切だと思う。LINEじゃ伝わらないし、変な解釈が入るのでよくない。まだ1ヶ月しか経っていない中で改善点を洗い出せた点は良いことだと思う。コツコツと良い店にしていくのみ。make a better place!
今日もジュラワインをキープしてくれていた。珍しいジュラの赤。
「ペアリング」を頼んだのに、また1本空けてしまった。
今日も楽しい1日だった。
大切な人との時間を大切に。
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大城立裕著『対馬丸』(講談社文庫、初版2005年、文庫化2015年)読了。
前から気になっていた本をやっと読んだ。
1944年(昭和19年)8月21日、疎開船として民間人や児童ら1661名(うち児童834人)を乗せて那覇港から長崎に向けて出港した「対馬丸」は、翌日22時12分、米海軍潜水艦「ボーフィン」からの魚雷攻撃を受け、同22時23分に沈没した。艦長は疎開児童を乗せた船とは知らなかったようだ。本書は、生存者を探索し取材を進めてまとめあげた渾身のノンフィクション。
沖縄戦開始の1年前の1944年から、沖縄本島が米軍の攻撃対象になるという噂が駆け巡っていたらしい。そこで政府は沖縄の児童を疎開させることを決めるのだが、沖縄周辺には既に米海軍潜水艦が何隻も潜んでいた。米軍は沖縄本島ではなく本州に直接攻撃・上陸する可能性もある。疎開船が攻撃されるリスクを負ってまで児童を親元から何ヶ月も切り離す必要があるのか、という疎開反対派も多数いたようだ。「行くも地獄、行かぬも地獄」の選択だった。
那覇を出港しても、いつ船が攻撃を受けるか分からないという不安がある。多くの児童が船内ではなく甲板で寝ていたらしい。攻撃を受けた22時12分は、多くの児童が船内・甲板で寝ており、攻撃に気付かなかった者もいたが、引率教員が叩き起こして船外に連れ出した。たった11分で船は沈没。おびただしい重油や物の破片で息の根を止められた者も多数いたようだが、筏や流木につかまり助かった者もいた。
助かったといっても、筏は5日も6日も漂流した。昼間は灼熱の太陽を浴び、夜は極寒の冬のような寒さだった。台風が近づいていたので風も波もキツかったのではないだろうか。空腹と睡魔にも襲われるが、寝ると筏から落ち、死んでしまう可能性もある。生存者どうしで起こし合い(殴り合い)ながら睡魔に耐え、生き延びようとするのだが、その苦しみに耐えきれず自ら海に落ちで命を断った者もいる。何日もかけてどこかの島に流れついたのが真の生存者である。
「対馬丸」が沈没したことは箝口令が敷かれたが、沖縄本島に残る親御さんの元にも噂が周り、疎開に出した校長先生の責任問題に発展し、父兄と校長の激しい対立となった。家に石を投げ込まれた校長もいたようだ。
しばらくすると「十・十空襲」が始まった。10月10日、米軍が沖縄本島に爆弾を注ぎ、那覇市を焼き尽くしたのだ。戦火の近づいたことをしった人々は、われさきにと疎開を始めた。「行くも地獄」より「残るも地獄」になったのだ。沖縄戦が始める直前までに、のべ187隻が本土や台湾へ7万余人を運ぶことになった。「対馬丸」はその1隻だったのだ。そして、1945年3月26日、米軍が慶良間諸島が上陸し、さらに4月1日に沖縄本島に上陸し、民間人含む約20万人が亡くなった沖縄戦が始まった。
本書は、戦前・戦中の沖縄の理解を深めることができる貴重なノンフィクションである。