久しぶりに秘書ちゃんとランチ。
秘書ちゃんとは毎週会っているのだが、この数ヶ月は新店舗『和さびや』に開店準備に追われていたので、店の「女将さん」として会っていた。「秘書」として会うのは久しぶりかもしれん。積もり積もった話を共有しただけで4時間以上過ぎた。来年から「黒字社長塾」をオンラインコミュニティにしていったり、新しい事業を立ち上げたりするので、そのあたりも擦り合わせ。
『「社長」の本分』にも書いたし、このブログでも書いたことがあるが、「対話」をするには「口頭でのコミュニケーション」を怠ってはならないと思う。最近は、社内のコミュニケーションをLINE、Messenger、チャットなどに依存している会社が増えてきた。上司が送信したLINEに部下が即レスしなければならないという奇妙な風習がある会社もある。薄っぺらい言葉の量産化が仕事への集中力・生産力を阻害していることに気付くべきだと思う。特に、従業員やビジネスパートナーをインボルブしようと思うなら、「口頭でのコミュニケーション」「face to faceのコミュニケーション」「heart to heartのコミュニケーション」を面倒臭がってはならない。できる限り直接顔を合わせて対話すべきだと思う。オンラインコミュニティには必ず「解釈」が入ってしまう。それが時には重大なコミュニケーションエラーとなり、時には相手を傷つけたり、自分が傷ついたりする。時間と精神の無駄づかい。
秘書ちゃんには大学の仕事の話はほとんどしたことがなかったので、私がいずれ関学の正職員(教授職)になると思い込んでいたらしい。これこそ「解釈」であり、コミュニケーションエラーなので、私も反省した。正職員にはならない。なれない。私が組織に属しながら生きていくということは性格的にできない。いまの非常勤講師として赤字を垂れ流しながら授業をするよりも、たんまりと給与を頂いて研究に打ち込んだ方が楽だという人もいるが、私にとっては組織の論理で働くことの方が苦である。在野の人間として誰にも拘束されずに生きていく方が何倍も楽だ。最近は「独立研究家」という肩書の人も出てきたが、研究家という肩書もしっくりこない。肩書は誰かが付けてくれると思うが、私は在野で独学に打ち込みたい。
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志村真幸著『在野と独学の近代』(中公新書)を読んだ。
本書は、ダーウィン、マルクスから南方熊楠、牧野富太郎といった在野で独学に打ち込み、社会に足跡を残した人々の姿を活写したもの。1800年代の人々の生き方をよく調べ上げたものだと関心しながら読んだ。
イギリスでは在野の研究者が大学教授より尊敬されてたらしい。ダーウィンやマルクスも大学で勤めていない。マルクスや熊楠は大英博物館のリーディングルーム(閲読室)に通い、古今東西の文献を読み、それを筆写していったらしい。そのノートの数は数十冊になったという。その膨大なノートは現存しており、『資本論』の一部に使われたことも分かっている。当時の図書館のリーディングルームはそういう場所だったようだ。
大学教授にならず独学で研究し成果を書籍・論文等として発表する人や、(柳田國男のように)新しい学問を創始した人もいる。また本書には載っていないが、日本に「知の巨人」と称された人は数え切れないほどいる。アカデミックな世界に身を置かなくても研究成果を発表することはできる。
今の時代は、ネットもあり、タブレットもあるため、図書館に通い、文献をを筆写する必要もない。沖縄に住んでいても、海外にいても、ラップトップ1台であらゆる情報が入手でき、原稿を書くことができる。大学の研究室が必要とは思えない。在野で独学に打ち込んだ方が好きなことができるだろうし、社会により大きなインパクトを与えることができると思う。私はそういう生き方をしていきたいと思う。