okinawa

マンションのエレベーターに蟹が乗ってたら、けっこうビビる。

どこから来た??



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今日も砂辺海岸までラン。
北谷の好きな場所のひとつ。

ここもカニがたくさん。



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夜、行きつけの寿司屋「次郎長寿司」へ。


次郎長寿司


沖縄移住前から通っている地元の老舗寿司屋。ごくごくフツーの寿司屋なんだけど、沖縄にはこういうフツーの寿司屋が少ないので、愛用させて頂いている。



次郎長寿司

北谷にはメジャーな回転寿司チェーンが勢揃いなんだけど、行ったことはない。カウンターのある寿司屋でしっぽり食べたい。



次郎長寿司

日本酒もいいものが揃っている。今日は山形の「くどき上手」。美味い。

あぁ幸せ。



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食後、アメリカンビレッジまで散歩したが、3連休明けだからか、観光客っぽい人はいなかった。静かな夜だった。波の音を効きながら、自宅まで歩いた。



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真鍋厚著『人生は心の持ち方で変えられる?』光文社新書、読了。

副題は、「 〈自己啓発文化〉の深層を解く」

自己啓発といえば、努力を積み重ねて社会的な成功をつかみ、高い報酬や地位を得ようとする上昇志向を持つことや、そのための原理原則を学ぶことをいう。しかし、近年では、「頑張らない」「競争しない」「モノを持たない」という従来の自己啓発とは逆張りの路線がウケている。著者は、前者を「足し算型の自己啓発」、後者を「引き算型の自己啓発」と区分して定義している。

状況が大きく変わったのは2020年のコロナ禍以降であるが、実は2010年代から自己啓発書のタイトルは大きく変わり、「頑張らない〜」といった脱力系のものや、「持たない〜」といった脱物質主義・ミニマリスト系のものや、時間・睡眠・健康といった非地位財系のものが売れている。そして、この10年で目に付くようになったのが「自己啓発なんかやめろ」的な反自己啓発の潮流である。

私自身、古典的な自己啓発書から、近年の自己啓発書まで読み漁ってきたが、自己啓発に意味がないとは思わない。意味はある。学校教育では学ぶことができない「成功するための原理原則」は知識・知恵として学んでおくべきだと思う(ここでいう成功とは、社会的地位やモノを得ることだけではない)。「自己啓発は無意味」といった冷笑的な振る舞いをしている人が、幸せになることや、社会にインパクトを与えることや、社会に足跡を残すことはできないと思う。著者も、そういった振る舞いは「無責任」であり「非現実的」ですらある、と述べている(P290)。

ただ、社会的地位や物質的成功を獲得したところで幸せにはなれない。年収が億を超えようが、念願の豪邸やフェラーリを手に入れようが、幸福度は1ミリも増えないのだ。とはいえ、それを手に入れようとするプロセスの中に幸福がある。そういう意味で、本書のタイトルにもあるように、人生は心の持ち方で変えられる。幸せになると決めた瞬間から、人は幸せになれる

しかし、ひとりで幸せになれることは絶対にない。著者は「一人で解決しなければならないという思い込み」を解除することから取り掛かるべきだ、と述べている(これが本書の結論でもある。P297)。成功することも、金持ちになることもできないから、持たずに生きるんだ! 楽しく生きるんだ! と「引き算」の生き方をするのは構わないが、そのプロセスに必ず人がいる。その人との関わりが幸福を決める。

足し算で生きていくにしても、引き算で生きていくにしても、社会との接点を失って孤立した人生に幸福はないということは忘れてはならない。地方に移住した人やFIREして仕事を辞めた人が、その生活に耐えられず、元の生活に戻っていくのも、社会との接点を断つからだ。大切な人の存在を承認し、大切な人の関心に関心を持つこと。自己啓発書はそんなことも教えてくれる。