新装版 苦海浄土 (講談社文庫)
石牟礼 道子
講談社
2004-07-15



全国民、読むべし。

水俣病の被害者や家族の苦しみを克明に綴った壮絶な記録。

 ・1954年(昭和29年)ごろに水俣市で原因不明の疾患が散発的に発生する。
 ・1956年(昭和31年)5月1日が「水俣病」の公式発見の日とされる。


著者の石牟礼道子(1927-2018)は熊本県天草市に住んでいた一介の主婦でしたが、自らの故郷を襲った惨禍にやむにやまれない気持ちになり、水俣病患者からの聞き書きを開始します。

 ・1960年(昭和35年)頃から本書の原稿が断続連載される。
 ・1969年(昭和44年)に『苦海浄土』として出版される。


『苦海浄土』は第1回大宅壮一ノンフィクション賞を与えられたが、「いまなお苦しんでいる患者のことを考えるともらう気になれない」と受賞を辞退。

その後、半世紀近く読み継がれた不朽の名作であり、作家の池澤夏樹さんは『苦海浄土』を「戦後日本文学第一の傑作」の太鼓判を押し、自身が編纂した「世界文学全集」に唯一の日本の作品として収録しました。

「いつか読もう」と思いながらズルズルと来てしまいましたが、先日著者の訃報を知り、ようやく本書を手に取りました。

------

上述の通り、1954年(昭和29年)ごろに水俣市で原因不明の疾患(急性脳症患者)が散発的に発生することにより「水俣病」は発見されました。

原因は、日本窒素肥料株式会社(現チッソ株式会社)水俣工場が海に排出していたメチル水銀を、魚介類を通じて人間の体内に摂取されたことによります。

しかし、チッソ社は水俣病の原因は自社にはないと、何ら対策を立てないばかりか、熊本大学医学部の原因究明を妨害さえする。税収と雇用の多くをチッソ社に頼る水俣市も操業を止めさせる訳にはいかない。厚生省に報告されたのは3年6カ月後のこと。その間に被害が拡大する・・・。時は高度成長期の真っ只中。戦後復興、経済発展という大義名分の前に、企業は人命・人権を犠牲にしてでも金儲けに走りました。

本書を読んで、色んな箇所でビックさせられましたが、1956年(昭和31年)5月1日に「水俣病」が公式に発表される以前から、住民や漁師たちはそれに気付いていたという点にも驚きました。例えば、こんな記述があります。

・・・水俣湾内は、網を入れると、空網で上がってくるのに、異様に重たく、それは魚群のあの、ぴちぴちとはねる一匹一匹の動きのわかるような手応えではなかった。

網の目にベットリとついているドベは、青みがかった暗褐色で、鼻を刺す特有の、強い異臭を放った。臭いは百間の工場排水口に近づくほどひどく、それは海の底からもにおい、海面をおおっていて、この頃のことを、漁師たちは、

「クシャミのでるほど、たまらん、いやな臭いじゃった」

と今でも語るのである。
(P86〜)

この工場の排水口からは、「原色の、黒や、赤や、青色の、何か油のごたる塊りが、座ぶとんくらいの大きさになって、流れてくる」(P87)ような状況だったといいます。「海底の魚どもが、おかしな泳ぎ方ばしよる」(P87)ともいいますから、かなり深刻な状況だったようです。

それでも(貧困層が大半の)漁師たちは、生きていくために、油の塊りの海に出ていく。

そして、生きたいくために、それを売り、それを食べる。

この記述も強烈です。

・・・水俣病わかめといえど春の味覚。そうおもいわたくしは味噌汁を作る。不思議なことがあらわれる。味噌が凝固して味噌とじワカメができあがったのだ。口に含むとその味噌が、ねちゃりと気持ちわるく歯ぐきにくっついてはなれない。わかめはきしきしとくっつきながら軋み音を立てる。(P287)


まさに無間地獄。

なぜこのようなことが起こったのか、根本的な問題は何なのか、罪とは何なのか、そして想像を絶する惨禍に見舞われた時に人はどう生きていくことができるのか・・・様々なことを考えさせられる一冊です。

『夜と霧』『原爆の子』『沈黙の春』などと並び、人間存在の意味を問う、語り継がれるべき名作だと思います。