先日紹介した三宅香帆著『人生を狂わす名著50』(ライツ社)という書評本の中で、カズオイシグロ、村上春樹、太宰治、川端康成などと並んで紹介されていたのが本書『ぼくは勉強ができない』という小説。

なぜか分かりませんが、『人生を狂わす名著50』を読み終えた後に、直ぐこの本を購入してしまいました。タイトルに惹かれたのか、著者に惹かれたのか、書評に惹かれたのか分かりません。

本書は、偶然にも先週読んだ恩田 陸著『夜のピクニック』 (新潮文庫)と同様に、主人公は父親不在の高校生。私も(片親不在ではないですが)高校生の時に両親が離婚してますので、なんとなく境遇は似ているかな。

それだけではなく、本書の主人公の時田秀美くんという高校生は、私の学生時代に考えていたことと非常に似ている。

私の学生時代に担当になってしまった教師陣は、自分の論理を組み立てた結果以外のものを認めない人が多く、生徒の論理なんて聞いてくれませんでした。しかし、どんな論理にも隙間がある。他の生徒はそれに従うのだが、私は「そんなことないんじゃない?」なんて正論をぶつけてしまう。プライドを傷つけられた教師は感情的に怒り狂う。「ふざけるな!」と。

主人公の秀美くんも、そういう生徒。
ぼくは、17年間のこんな短い人生の中で、もう既に何度か落胆しているのだ。いったい、大多数の人々の言う倫理とは、一体、何なのだろう。それは、規則のことなのか? それに従わない者は、出来の悪い異端者として片付けられるだけなのか?(P118)

得てしてこういった生徒は(学校の)成績がよくないものだ。秀美くんはそれを父親不在のせいにされる。
父親がいない子供は不幸になるに決まっている、というのは、人々が何かを考える時の基盤のひとつにしか過ぎない。そして、それは、きわめてワイドショウ的で無責任な好奇心をあおる。良いことをすれば、父親がいないのにすごいと言い、悪いことをすれば、やはり父親がいないからだということになる。すべては、そのことから始めるが、それは、事実であって定義ではないのだ。事実は、本当は、何も呼び起したりしない。そこに丸印、ばつ印を付けるのは間違っていると、ぼくは思うのだ。父親がいないという事実に、白黒は付けられないし、そぐわない。何故なら、それは、ただの絶対でしかないからだ。(P109〜)

生きていくためには色々な不条理に耐えなければならない。けど、そんな中でも自分の価値観だけは守っていきたいものです。自分自身の価値観をそこに委ねる人にはなりたくない。

私が本書で最も気に入ったフレーズがこれ。
佐藤先生の生活指導のために落ち込んでいる訳には行かないのだ。ぼくは、ぼくなりの価値判断の基準を作って行かなくてはならない。忙しいのだ。何と言っても、その基準に、世間一般の定義をもちこむようなちゃちなことを、ぼくは、決してしたくないのだから。ぼくは、自分の心にこう言う。すべてに、丸をつけよ。とりあえずは、そこから始めるのだ。そこからやがて生まれて行く沢山のばつを、ぼくはゆっくりと選び取って行くのだ。(P123)


とてもポップな文体でさらーっと読める小説でしたが、なるほど、『人生を狂わす名著50』に入る程の人生論的な内容でした。学生時代にこんな本に出会わなかったことに悔やまれます。学生さんには是非読んで欲しい一冊。そして、教師にも。子を持つ親にも。