超オススメの一冊。
哲学者 西田幾多郎(1870-1945)について書かれた本。
西田幾多郎は、小さい時から兄弟が次々と亡くなり、父が破産し、妻とも離縁し、さらに8人の子のうち5人が死するという耐え難き苦難の人生を歩みます。そのような苦痛・悲哀の中でひたすら自分と向き合った結果、「日本初」「日本発」の哲学が生まれたと言われています。
西田幾多郎は、もともと哲学者を目指して原典研究にいそしんだ人ではなく、苦痛・悲哀の中でただ歩きながら沈思黙考し、自分との対話を行いながら普遍的で絶対的なものを見出そうとしました。そのため、西田幾多郎のコトバは、「学問性」満開の研究成果的な哲学書とは異なり、「日常性」の世界から昇華されたものであるため、個人的には共感・共鳴できる所が多くありました。
(なお、京都の東山のふもとの観光スポット「哲学の道」は、西田幾多郎が沈思黙考しながら歩いた道だそうです)。
その西田幾多郎の哲学は、「無」の哲学」と言われます。
西田は、我が子が次々と亡くなるという苦痛・悲哀に深い意味を探ろうとしたのでしょう。そこで、自分の内面の深い所まで降りて行った結果、「深い意味がなければならない」は、実は「本当は何の意味もない」という根源的な立場と背中合わせだという結論に辿り着きます(P43参照)。
そして、「無の哲学」「純粋経験」「絶対無の場所」といった概念を打ち出すわけですが(詳細は本書をご参照下さい)、簡単にいえば、「私」などというものは根本的に存在せず「無」であり(第二章)、「神」といえども本質は「無」であるといいます(第六章)。
西洋哲学の世界では絶対的な存在として「神」を置いていたわけですが、西田幾多郎は(つまり日本初・日本発の哲学は)「無」だというのです。つまり、「神」を持ち出すことなく、真の実在は何かを思考したのです。
私はこれまで西洋哲学・思想の本を読んでも、フィクションのようにしか思えず、モヤモヤ感を拭い去ることが出来なかったのですが、本書を読んで時にすっとーーんと腑に落ちるものがあり、霧が晴れたような感覚になりました。
着目すべきは、西田幾多郎のいうこの一文でしょう。
「我々が此処に生れ、此処に働き、此処に死に行く、この歴史的現実の世界」(P175)
つまり、「人は、ただ、この現実世界に生まれ、働き、死ぬだけ」であると。西田幾多郎は「物となって行う」ことを説いています。この「無」の世界において、人は、この現実世界に生まれ、働き、死ぬだけである。だから、今ここでこのようにおける一期一会に命を燃やし、我執や我欲を捨て去って、「物となって」生きていけと。その時、自分の使命が自覚されてくるというのです。
西田幾多郎の古典的名著『善の研究』は、正直難解すぎてよく分かりませんが、本書はとても分かりやすい。日本思想への第一歩を踏み出す一冊として、超がつくほどオススメします。
▼目次
序章 西田幾多郎の「道」
第一章 「無の哲学」の誕生
第二章 「純粋経験」とは何か
第三章 「絶対無の場所」について
第四章 「死」と「生」について
第五章 特攻精神と自死について
第六章 日本人の宗教意識
第七章 「有の思想」と「無の思想」
第八章 「日本文化」とは何か
第九章 大東亜戦争と西田哲学
第十章 絶筆「私の論理について」
第十一章 「永遠の今」と無始無終の時間
終章 西田哲学の毒
【 人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり 】と
安曇野市の高家公園の石碑の、
【無事於心無心於事 物となって考へ 物となって行ふ 西田幾多郎書.】 とで
【 吾 】と【 物 】を[融合]し[数の言葉(自然数)]に思いを寄せると
[自然数]が、絵本 「もろはのつるぎ」 に生る。
2020年は、西田幾多郎 生誕150年 没後75年 にあたり
「善の研究」の
【我は数理を知ると共にこれを愛しつつあるのである。】の文脈に捧げる。