先日紹介した大平健著 『やさしさの精神病理』 において、人々が、双方が相手に心の中に踏み込む”Hot”な関係から、相手の心の中には踏み込まず、相手との滑らかな関係を保とうする”Warm”な関係へと変化していったことが述べられていました。

では、「傷つきたくない」という思いから他者との対立や摩擦を徹底的に避けるという人間関係( =”Warm”な関係 )が、なぜ出てきたのでしょうか。



偶然とは恐ろしいもので、大平健著『やさしさの精神病理』を読んだ直後(同じ日)に、中島義道著「『対話』のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの」を読んだのですが、そこに答えが書かれていました。

さらに驚くことに、この本でも『やさしさの精神病理』の内容が引用されていました。



中島義道氏は、このような”Warm”な人間関係を作り、若者から言葉を奪ったのは、「思いやり」を優先する教育であり、「やさしさ」が強調される社会を作った大人たちだ!、と言います(P143〜、P163〜参照)。

いつの頃からか、我が国では「他者」の異質性を尊重することがなくなりました。

本来、人と違うことは素晴らしいことです。

しかし・・・・・・

「他者」と対立すること、言葉を尽くして説明すること、自己主張をすること、自分で判断し、自分で決定すること、自分で責任を引き受けること、などはタブーとされ、「思いやり」や「やさしさ」という美名の下、「他人を傷つけず、自分も傷つかない」という社会を大人たちが作り上げました

確かに、思い返すと、学校の先生や親(特に母親)から言われたことは、「他者」との違いを消し去り、「他者」との対立を避け、「他者」との摩擦が全く生じないように、「ああしなさい」「こうしなさい」と街の立て看板に書かれているようなことばかり。決して、「他者」と違うことをして褒められるということはありません。

「なんで!?」という疑問や、「どうして!?」という反論さえも許されない空気。



若者は、個性を奪われ、叫び声を出せなくなってしまった結果として、

『若者が見出した安全地帯』であり、

『わが麗しき日本文化の究極形態』

『コトバのいらぬウォームな関係』(P163参照)。



本書が出版されてから17年が経っても、
見渡してみると、教育者もママさん達も、何も変わっていません。

若者の声を押しつぶし、個性を押しつぶし、
「ああしなさい」「こうしなさい」との、〈対話〉のない立て看板のような社会。



著者は言います。

あなたは――自覚的無自覚的に――

 じつは他人の言葉も封じているのだ。

 他人の叫び声を聞かない(聞こえない)耳をつくっているのだ。

 真実を求めようとせず、〈対話〉を全身で圧殺しているのだ。

 だから、

 あなたは加害者である
。』
(P204〜参照)




読後、色々なことを考えさせられた一冊でした。