先日紹介した「アドラー心理学 シンプルな幸福論」によると、
●人間の悩みはすべて対人関係の悩みであり、と書かれています。
●対人関係をよくするためには、勇気を持って主張することが突破口となる
つまり、和を重んじるとか、協調性を重んじるというような「自分の考えを主張しない美学」や、空気を読むとか、波風を立てないというような「黙ってしまうという思いやりや気配り」について、アドラーは全否定なわけです。
「勇気を持って主張しよう」と言われたら、ハイハイって感じになりますけど、でも一方で、我々は他人に対する配慮や、思いやり、優しさというものが美徳であり道徳的であると言われてきたはず。
これは一体どういうことなのか。
この「疑問」に対する解を求め、今から約20年前に読んだ大平健著 『やさしさの精神病理』を再度購入しました。
20年ぶりに読むと、これが結構面白い。
大平健氏は精神科医の先生。
悩みをかかえて精神科を訪れる患者たちを見ていると、親から小遣いをもらってあげる「やさしさ」とか、好きでもない人と結婚してあげる「やさしさ」とか、行き過ぎたやさしさをもった若者が増えていることに気付きます。これらのやさしさについて大平先生は「いちおうは理解できますが、とうてい納得できるものではありません」(P8)と言います。
では、従来の(古い)やさしさと、若者たちの(新しい)やさしさとは、何が違うのか。
大平先生は、これを”Hot”(ホット)、”Warm”(ウォーム)というコトバを使って、実に分かりやすく説明しています。
つまり、従来の(古い)やさしさというのは、相手が自分の気持ちを察してくれ、それを我が事のように受け容れてくれる時に感じられるものであり、双方が相手に心の中に踏み込むことによって得られる感情で、これを本書では”Hot”な関係と表現しています。
しかし、最近の若い人は、このような”Hot”な関係を嫌います。ウザイのです。そのため、相手の心の中には踏み込まず、相手との滑らかな関係を保とうとします。これを本書では”Warm”な関係と表現しています。
従来の”Hot”な関係を求める人々も、集団の中で”Warm”な関係を求めるようになってきました。
そして、「やさしさ」の定義も、(従来の)双方との一体感・心地良いというものではなく、他者との対立や摩擦を避けるというようなものに変化していったのです。
このように、人々が他者との対立や摩擦を避けるようになったのは、人は弱いものであり、傷つきやすいものであり、そして人は皆違った生き物である、という前提があるのだと思います。弱くて、傷ついた「私」は、その傷を癒やしたいと思い”Hot”な関係を求めるか、これ以上相手を傷付けて、自分も傷付きたくないと思い”Warm”な関係を求めるか、のどちらかを選択するのではないでしょうか。これが、最近の若い人は”Warm”な関係を求めるようになってきた。
(ただし、約20年前に出版された書籍で「若い人」と言われていた層の人たちは、既に30〜40代になっていますから、今では日本全体が”Warm”な関係を求めるようになってきたといっても良いでしょう。)
私は、”Hot”な関係と”Warm”な関係のどちらが良くとも悪いとも思いませんし、若い人が弱いからダメだとも、女々しいとも思いません。相手との一体感・心地良さを求めがちな人こそ弱くて女々しいのかもしれません。
ただ、世の中には”Hot”な関係をウザイを思う人が多くいるということや、お互いを傷つけない”やさしさ”というものがあるのだということは知っておくべきだと思います。
私個人の考えとしては、自分の気持ちを傷つけることが怖いからといって、自分に素直にならなかったり、自分の感情を押し殺したり、優柔不断になったり、決断できなかったり・・・・・・という人生で果たしていいのだろうか、と思います。”Hot”な関係が苦手であれば、それはそれで良いと思いますが、自分の感情を押し殺したまま生きていくのは健康的だとは思いません。
冒頭の話に戻しますと、アドラーは、「黙ってしまうという思いやりや気配り」というような”Warm”な関係の”やさしさ”に収まらず、他者に嫌われることを恐れず、感情を押し殺さず、素直に言葉に出して、自分の思いを伝えることが、幸せにつながることだと説いているのでしょう。
20年ぶりに本書『やさしさの精神病理』を読むと、アドラーを読んだ時の上述の疑問が氷解しました。