人生百年の教養 (講談社現代新書)
亀山郁夫
講談社
2022-04-13



言わずとしれたドストエフスキーの翻訳家 亀山郁夫さんが『人生百年の教養』という本を出された。知的興奮を覚える本だった。

教養とは何か。

大学の一般教養の授業のような知の詰め込みではない。

真の教養とは、人間の知とエモーションが一体化したものであり、他者と対話・コミュニケーションを通じて共有されることで初めて価値を持つものであり、経験されるべき何かである(序章・第1章を元に、私なりに再定義した)

著者 亀山郁夫さんは、「『共通知』としての教養は死んだ」と述べている(P9)。知識だけ詰め込んで、その優越感に浸り、他者と対話を拒み、他者の批判ばかりし、一人で喜怒哀楽をむき出しにしている人がいるが、それは「知識人」ではなく、単なる「常識人」にすぎない。そんな常識人の知識は「知識同士を結び合う鎹(かすがい)のようなものが存在せず、知識としてばらばらに散財しているだけ」(P33)なのだ。

上述の通り、「知」は「共有」されるべきのである。その「知」は世界中のいたるところにある。「隣人は、知の宝庫」(P181)である。そのため「知」を共有できる相手(同志)を広く世界に求めるべきなのだ。自分だけが知の体現者であると考えるのは「傲り」である(P9)。

本書で最も重要な文章は、次の一文かもしれない。
「謙虚な気持ちで隣人の言葉に耳を傾け、隣人の愛の対象を正確に見きわめる努力を重ねたほうがどんなに得策かわかりません」(P10)

著者は、隣人が愛するものを知り、隣人が何を喜びとしているかを知ることが、自分の思考を豊かにする秘訣であり、それを盗み、反復し、思考し、また反復することが、自己発見のための最短の道であると述べている。隣人の「喜び」を模倣する欲望に素直になることが大切だとも述べている(P181〜)。そして、その隣人と、喜怒哀楽をすこやかに経験できる知性を持つことが、真の教養人である(P21、P275等参照)。すこやかな喜怒哀楽を経験する準備として、文学や芸術や歴史を学ぶのである。

ほとんどの知識・情報がウェブから入手できるようになった今、知の詰め込みにさほど意味はなく、知の取得や教養それ自体が、「探究型」から「選択型」へと代わっていった。そして、知の「共有」は、一歩進んで「継承」すべきものになっていった。真の教養人の「使命」は、教養を「継承」することである。その「継承」とは、文学者、芸術家、教育者、研究者などが作品を残すだけでなく、同志で「語り合い」をすることも含まれる。東京外国語大学の学長でもある亀山郁夫氏は、コロナ禍におい、学生の授業・課外活動が全面的にオンラインに置き換えられた事態に陥ったことについて、「大学はおそらく精神的な危機にさらされるはず」と述べているが(P242)、この精神的危機は大学や学生だけの問題ではないだろうと思う。

誰しもが平和を願うが、平和を願う人々の輪が広がろうと、ひとりの人間の「狂気」の前には無力であった。そして、ロシアによるウクライナ侵攻という深刻な悲劇が起こった。これに対して、教養人は何ができるのだろうか。繰り返すが、知識の詰め込みは意味がない。教養人としての「使命」は何なのか、本書の随所にその答えが書かれている。

本書は、最近の教養ブームの中で出された教養本とは一線を画する、真の教養人とは何かを教えてくれる本である。超オススメ。