誕生日


小学生時代、私は同級生のMちゃんという子に片想いをしていた。Mちゃんに告白したことはないが、私の親友が「武田はお前のことが好きやねん」と言ってしまった。シャイな私は、余計にMちゃんに喋りづらくなってしまい、教室内でほとんど喋ることができなくなった。しかし、それ以降、Mちゃんは私の誕生日(7月22日)になると、毎年自宅のポストにプレゼントと手紙を入れてくれた。小学校の終業式は7月20日頃なので、いつも私の誕生日は夏休みだった。誕生日はMちゃんに会えないが、Mちゃんからの誕生日プレゼントと手紙が毎年の楽しみだった。私もMちゃんの誕生日に、彼女のマンションの玄関のノブにプレゼントの紙袋をかけるようになった。その儀式は小学校を卒業してからも数年続いたと思う。顔を合わせることも、喋ることもなかったが、「おめでとう」の気持ちだけは伝え合った。忘れなれない青春の思い出である。

-----

以前、ある年上の方と久々に再会した時に、「僕の誕生日に武田さんから連絡がなくて、ずっと寂しかったんですよ」と言われたことがある。思いも寄らないことを言われ、返す言葉が見付からなかった。

私は知人の誕生日は比較的よく憶えている。「真の友人」は数名しかいないが、「知人」は365人以上いる。だから、毎日誰かが誕生日である。もちろん、その全員に祝辞を述べることなんてできない。

逆に、自分の誕生日に祝辞を受ける側となっても、すべての「知人」から祝辞を言ってもらえるなんて思わないし、望んでもいない。最近は、多くの人がLINEやMessengerを使ってお祝いメッセージのやり取りをしていると思うが、私は(以前も書いたが)LINEとかMessengerとかチャットのやり取りを極力やらない。はっきり言えば、LINEが嫌いなのだ。薄っぺらい言葉のやり取り、コミュニケーションの短縮化、スタンプ化、機械化、形骸化、奴隷化に強い違和感しかない。「おめでとう」という感情は、1秒で伝えられるものなのだろうか? それが対人コミュニケーションなのだろうか? その祝辞が記憶に残るのだろうか? そういうものが大量に送られてきても、私は沈黙するしかない。抑圧された感覚となり、まともな言葉でコミュニケーションをしようとする気が失せる。

誕生日は親、家族、友人などに感謝する日だとも言われる。かつては、多くの人が手紙やバースデーカードに気持ちをしたためていたと思う。そこには感情があり、感謝があり、承認があった。手書きだからこそ伝わる言葉があるが、大切なことは言葉にしにくい。言葉が見付からず、余白が生まれ、それが読み手の想像力を生み、余白を埋めていく。気持ちや愛が込められている分、受け手の記憶となる。

世の中が便利になり、モバイルアプリでコミュニケーションができる時代に、このようなことを言うのは「昭和のオッサン」かもしれないが、言葉が壊れてきた今こそ、自分の言葉で伝えるということを大切にすべきだと私は思う。誕生日の当日じゃなくてもいいじゃないか。会った時に「おめでとう」と言った方が何百万倍も記憶に残るはず。

先日の石垣島の夕食時、乾杯をする際に、旅友Tさんが「タケさん、少し早いけど、誕生日おめでと〜う!」と言ってくれたのは、ホントに嬉しかった。Tさんも私も、事務連絡以外でLINEを使うことがないから、誕生日当日にやり取りすることなんてない。しかし、石垣島での「おめでとう」は、少し照れていたTさんの表情と共に私の記憶にこびり付いて離れんだろうよ。

-----

ということで、今日、歳を1つ重ねた。SNS等から誕生日を非公開にしたので、スタンプだけを送り付けてくるような人はいなかったのでホッとした。誕生日を非公開にしても多くの方からお祝いのメッセージを頂いたのは感謝&感激。誕生日を憶えてくれていただけでも嬉しいのに、愛のあるメッセージを頂いたことは、それがLINEやMessengerであっても、素直に嬉しかった。これからも大切な人を大切にしていきたい。

残りの人生、楽しむことに躊躇せず、弾を撃ちまくるのみ。
原始的な生き方をしていきたい。
No Fun,No Life!!