これは良書。最近読んだ本で一番共感した。

スマホの画面を見ることや、ネットで誰かと繋がっていることに疲れる。そう思っている人は、私以外にも多くいるはず。

多くの人が本来繋がるべき人をないがしろにし、スマホという機器の向こうにいる同じ境遇の限られた仲間とのみ繋がっているように思う。そうやって、スマホ上での繋がりがかえって世界を閉じてしまい、人間らしさを失っていくことになる。

本来の「人間関係」は、相手ときちんと向き合い、五感を通して共感し合い、信頼関係をつくり、身体的な繋がりや、情緒的な繋がりを大切にするものである。しかし、スマホ上の人間関係は、感覚的で抽象的なシンボル(コトバ、スタンプ)のやり取りだけで繋がっているに過ぎない。ネット上で何千人と「友達」がいるとしても、それは生身の人間として繋がっている訳ではなく、「点としてインターネットに浮かぶ存在」(P148)に過ぎない。表層的な関係だから、取り残されたくないという不安を抱え、だんだん孤独になっていく。

自分で抽出し、限定し、かつ、いつでも「退出」できるフィクションの世界に住むようになった人間は、「心を失いつつある」(P164)だけでなく、「考える」ことをやめるかもしれない(P166)という危惧がある。なぜなら、シンボルのやり取りだけで生きているから。

なのになぜ、多くの人はスマホを肌身離さず、常に誰かとLINEしているのか。

著者は、一度「スマホ・ラマダン」をやり、スマホがいったいどんな人間の欲に基づいているのかを知るべきだという(P106)。ちなみに著者は、ゴリラ研究家であり、屋久島でニホンザルと生活したり、アフリカのゴンゴでゴリラと一緒に生活したりという稀有な経験を持つ(この辺の話も非常に面白かった)。京都大学総長である今でもスマホを持たず、ガラケーも通知をオフにしているという。電波の届かない場所で、コトバが通じないゴリラと、五感を通して生活した経験があるからこそ、生物としての自覚を取り戻す必要性を訴えかける。

iPhoneがデビューした2007年から13年しか経っていないが、我々はスマホを肌身離さず、画面を凝視する生活をするようになった。便利な世の中になったかもしれないが、我々は、時間を失い、自分を失い、世界観を失い、人間関係に揉まれることからの学習や成長を避けるようになった。その後にいったい何が残るのだろうか。「スマホを捨てたい子どもたち」が一定数いるというのが救いである。