先日紹介した上田紀行著『生きる意味』は、自分が「かけがえのない存在」であり、自分が本当に求めているものに従って生きていくべきだということを気づかせてくれた「かけがえのない本」である。

この本の3年後に上梓されたのが本書『かけがえのない人間』

-----

このブログで何度か書いてきたが、日本人の多くは「他人の目」や「世間」を気にする「恥の文化」の中で生きてきた。そこに他人からの「同調圧力」が加わり、「ありのままの自分」を見失い、虚無感や無力感に溢れる。人と違うことは素晴らしいことなのに・・・。

まず、我々は自分が『かけがえのない人間』であるということを認める(自己認識)というところから始めなければならない。

それは、具体的には、
 ●私は大切にされるに値される存在であるということ
 ●私は愛されるに足る存在であること
 ●私は思いやりを受けるに足る存在であること
 ●私は素晴らしい存在であること

を認めること。

著者は、「自分自身が大切にされるに値するものだということを認識できない人が、どうして人に優しくしたり(略)できるでしょうか」と言っているが(P51)、確かにおっしゃる通りだと思う。

では、「自分自身がかけがえのない存在だと扱われていない場合はどうしたらいいのか?」

実は、著者は、本書を上梓する前に、インドでダライ・ラマ14世と会い、5時間にわたって対談をしている(その内容は別の本に収録されているらしい)。この時に、著者はダライ・ラマにも同じ質問をしている。ダライ・ラマの答えは、私も驚いたし、著者も驚かされたという(P45)。

ダライ・ラマの答えは、「怒るべきだ」


ダライ・ラマは、怒りには2つあるという(P44〜)
 1つは、慈悲から生じる怒り(=愛と思いやりから生じる怒り)
 1つは、悪意から生じる怒り(=誰かを傷つけたいという怒り)


「悪意から生じる怒り」は、破壊的であり暴力的であるから、当然良くない。しかし、「慈悲から生じる怒り」は、「正当な怒り」であり、「持つべき怒り」であるという(P46)。社会的に正しくないこと、差別・暴力に対しては、無関心であってはならず、強い怒りを持つことは当然である(P45)。また、尊重されるべき人間が危険に瀕していたり、苦しんでいたりということに関しても、愛と思いやりから生ずる怒りが湧き上がるのは正当なものである(P46)。

そのため、自分のかけがえのなさを奪っているものがあれば、泣き寝入りするのではなく、自分自身を思いやり、慈しみ、時には怒りを持って自分も社会も変えていかなければならない(P52〜)。

-----

「怒り」というと、ネガティブなことであり、良くないことのように言われることもあるが、人間はネガティブな出来事があった時に、自分なりの思想・哲学を編むものではないかと思う。著者も、「かけがえのなさ」に気づく大きなチャンスだと言っている(P207)。大切なことは、ネガティブな出来事が起こった時に、その出来事がどんな意味を持っているのかという「意味付け」ができるかどうか(P206参照)。

これまでの人類の歴史を振り返れば、そこに常に争い、暴力、戦争があり、色んなものを奪い合ってきた。しかし、ひとり孤独に生きている人はいない。著者もダライ・ラマも、人間の根底には、愛と思いやりがあり、それが社会を支えているという(第1章、第5章参照)。しかし、「愛されたい」と思うだけではいけない(P235)。愛と思いやりは受け身でもなく、押し付けでもないから。「どうしたら愛されるのか」ではなく、「何を愛して生きるのか」を考えること、それが「かけがえのない人間」という自己を確立することになり、自分や社会を変えることになる

愛される人から愛する人になれ。

これが本書のメッセージであり、最近出版された新刊書でのテーマでもある。