愛 (講談社現代新書)
苫野 一徳
講談社
2019-08-21



苫野一徳(とまの いっとく)氏。30代の哲学者。
私と同じ関西学院高等部出身だが、大学は早稲田。かなり珍しい経歴。

本書は、哲学的に「愛」を論じている。

著者は、広義の「愛」には、々イ、愛着、0Α↓た燭琉、という段階があると考えているようである。

,鉢△涼奮は、エゴイズムや執着がある。
やい涼奮は、エゴイズムや執着を超えたものである。

では、の「愛」とは何なのか?

この文章がポイントかと思う。
・・・「執着」に囚われることさえなければ、そのような意志を持つことができれば、わたしたちは、自らの「愛着」をそのような「愛」へと育て上げていくことができるのではないか・・・
(P64、赤字箇所は本書では傍点)

つまり、「愛」とは、
(=湧き上がってくるもの)だけではなく、
(=意志しうるもの)である(P195参照)。

そして、フロムの名著『愛するということ』を引用しながら、「愛」とは、他人への依存心、他人を利用しようとする欲求、ナルシシズム的な要素を超えたものであり、我々は理性の力によってナルシシズムを克服しなければならないという(P200〜)。

しかし、現実的に、理性の力のみによってナルシシズムを克服することは難しい。
ナルシスティックな人間は、理をもってナルシスティックだから。

では、そういう人は、「愛」やぁ嵜燭琉Α廚謀達することはできないのか?

ここで、私がこのブログで何度か書いてきた「存在承認」がキーワードとなる。
つまり、著者は、存在をそのまま承認してくれる人との出会いが、ナルシシズムを克服する最大の契機となり、それが「真の愛」への最大の契機になるという。

「あなたはOK、それでOK」と言ってくれる存在との出会いは、わたしを反動的ナルシシズムから救い出し、「愛」の可能性の条件を切り開いてくれるに違いない。親、保護者、教師などの一つの存在意義は、ここにこそあると言うべきだろう。(P205)

以前も書いたとおり、人は「存在承認」が得られなければ、人間関係が面倒くさくなったり、世間から逃避したくなったり、ひきこもりたくなったりするものだ。自分の存在意義を見失い、生きることも面倒くさくなる。逆にいえば、「存在承認」が得られれば、そこに笑顔が生まれ、愛が生まれる。

つまり、「存在承認」をしてくれる人を、理をもって、意志をもって、愛することが「真の愛」なのだ

愛は受動的な感情ではなく、能動的な活動である。
そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏み込むもの」である。
愛は何よりも与えることであり、もらうことではない

(エーリッヒ・フロム『愛するということ』より)

「真の愛」とは、愛する女性の美しさや才能を失ったとしても、私への愛を失ったとしても、亡くなったとしても、その人のことを変わらずに愛し続けることだ(P209参照)。

だから、「無条件の愛」「無償の愛」は、本来の「愛」ではない。「真の愛」とは、「存在承認」をしてくれる人を、理をもって、意志をもって愛することによって、その愛に条件などないと意志しうるものなのだ。

本書は、そういうことが難し〜〜く書かれている。哲学者っぽく。


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