京都2日目

私が師と仰いでいる人が2人いる。1人は人生の土台を教えてくれ、もう1人は知の土台を教えてくれる。知の土台を教えてくれる師は京都におり、学びはじめて14年が経つ。今日は、私のリクエストにより、東洋思想(特に日本の思想)についての土台を学ばせて頂いた。本居宣長、西田幾多郎、鈴木大拙といった天才がどうやって生まれたのかについて興味があったからだ。

思想とは、ざっくりいえば「モノの見方・考え方」といえるが、長い歴史の中でその「モノの見方・考え方」に変遷がある。日本の思想の潮流は、仏教・儒教の伝来や、キリスト教の伝来など、大陸を超えてやってきた「輸入モノ」に、日本独自の考えがブレンドされ、アレンジされていったものといえる。

その日本版の思想も、様々な「モノの見方・考え方」の違いにより、独自の思想が生まれてきた。そういった日本の数百年の思想を俯瞰してみると、大きく『理屈を立てる生き方』を打ち立てる天才思想家と、『理屈じゃない生き方』を打ち立てる天才思想家との絶え間ない闘いの歴史ではないかという気がしてきた(宗教や哲学もきっと同じではないか)。中国から輸入した「忠」とか「義」とか「仁」とか、道徳とか倫理とか人倫とか、道理とか合理とか、そうやって『濁りのない生き方』が素晴らしいという思想家がいれば、「いやいや、そんな人間なんているわけねーだろ」「そんな生き方が素晴らしいと言ってる人こそ不純だ」という思想家が現れる。何が正しいなんてものはない。自分はどう思うかが大切だと思う。

私は、『濁りのない生き方』を求めることは良いことだと思うが、『濁りのない人間』なんてこの世にいないと思っている。自分も濁っているし、相手も濁っている。だから、自分には濁りがないと驕り、相手に濁りのない生き方を求めるべきではないと思う。自分の人生や、目の前の相手に、濁りのない透明度を求めすぎるほど、浮遊物に意識がいき、自分が沈殿物と化していく。孤独を感じる人って、そういう人が多いのではないのだろうか。

朝から晩まで「思想」のことを思想していたら、人生なんて理屈じゃねーと思ってくる。

また2か月後に上京して、続きを学ぶ予定。