あの日のブログの記事については、いまでも会う人、会う人から驚きと同情の言葉を頂く。善意と存在を踏みにじられた私の心の傷は消えることなどあるまい。先日、あるセラピストと会うなり、「心の傷がすごすぎる」と言われた。ですよね・・・。

人生は不条理なものであり、思い通りにいかなくて当たり前だと思ているが、「人生において意味のないことは起こらない」とも思っている。では、こんな不条理なことが起こった「意味」は何なのか。その「意味付け」については、日々考えている。

少なくとも、あの日以来、心理学(人間の異常性)と病理学(癌)については、並々ならぬ関心を持つことになった。これまでならスルーするような情報まで吸収するようになった。この『〈いのち〉とがん』という本は読売新聞の読書欄で紹介されていた本だが、昔なら見向きもしなかっただろう。

本書の著者 坂井律子さんは、NHKの番組制作者。本書は、自らが突然膵臓(すいぞう)癌を宣告されてから、感じたこと、考えたこと、勉強したことなどを記録したもの。人に何かを伝えることを仕事にしてきた方が記録したものだけに、単なる闘病記とは次元が違う。まるでNHKのドキュメンタリー番組のような内容と展開は、患者になったからこそ書けるものばかり。読みながら、自分がいかに無知で浅学かを思い知らされた。

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序章で、「手術はゴールではなくスタートラインなのだった」(P27)と書かれている。初めは意味が分からなかった。しかし、第1章に入ってから、ページをめくる毎に衝撃を受けた。著者も、「術後の後遺症と化学療法は、のんきな私の想像をはるかに超えており」(P34)、復職しようとか、勉強しようとか思っていたことなどが、「無知な妄想」(P35)であったと述べている。

第2章で、抗がん剤の恐怖について詳述されている。改めて無知ほど恐ろしいものはないと思った。抗がん剤は、第一次大戦中のドイツ軍の連合軍攻撃において使われたマスタードガスから発想されて開発された猛毒の化学物質であるという(P66〜)。この強烈な化学兵器の攻撃から生き延びた人の中に、骨髄の細胞が特異的に破壊されている人がいることにある病理学者が気付く。そこから研究者が白血病の癌細胞だけを選択的に攻撃する化学物質として抗がん剤を開発していく。しかし、その猛毒は特定の細胞だけを攻撃するのではなく、正常な細胞にも(当然に)作用を及ぼす。胃の粘膜や、頭髪の毛根など、あちこちにダメージを与える。それでも身体に与えるダメージ以上に、癌がダメージを受けてくれることを狙い、猛毒を摂取する。著者は「賭けるしかない」(P68)と、化学療法を受ける。その副作用の記録は壮絶だった。癌ではなく副作用との闘いともいえる。そこまで苦しみながら、なぜ抗がん剤治療をするのか。それは、ここでは書かないが、最後の章まで読むと分かってくる。

最後の最後、あとがきにおいて、「私は、言葉の力を得て、病気と向き合えたことを改めて感謝しながらまださらに生きていきたいと思っている。」という一文で本書を締めくくっている。これは少しショックだった。なぜなら、本書の途中まで読んだ所で、著者の癌が再発・再々発し、原稿が未完のまま遺されることとなったことを知ったからだ(未完の原稿を編集したようだ)。上の一文は、亡くなる20日程前に書かれたもの。著者が亡くなる直前に、この一文を書いた意味、この本を残して逝った意味を、じっくりと考えた。

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本書の中で印象に残っているのが『死の受容の嘘っぽさ』について(P195〜)。
「死は誰にでも平等に訪れる。それがいつかは差があるにしても、必ず誰にでも死は訪れる。しかし、どうしても、そこに在るということを意識せざるを得ないのが、やはりがんという病気なのだと思う」(P204)。癌の告知の瞬間から、死はそこに在る。著者は、死の受容を説く本を読んだが自分は納得できなかったという。なぜなら、常にそこに在るんだから。「だから、死を受け入れてから死ぬのではなくて、ただ死ぬまで生きればいいんだと思う」(P218)と述べている。

こういうことを言うと反発を食らうかもしれないが、大病にかからなくても、余命宣告を受けなくても、ある程度の歳になると死を意識せざるを得ない。人生はすぐに終わると思っているから、時間と身体(存在)を意識し、生きることに必死になる。決まった時間に寝て、7時間以上睡眠を取り、毎朝必ず体重を記録し、食べるものに気を付け、日用品に気を配り、毎週トレーニングを欠かさず、毎年健康診断を受け、ストレスになることから避け、心の平安を確保しながら、自分と格闘する。ストイックだと言われることがあるが、そうじゃない。死がなければ惰性で生きているに違いない。死があるから、生き切るために色んなものを捨てるのだ

生きることと、死ぬことは、相反することではなく、同じことではないか。生きるとは死ぬこと。生きるとは死ぬための格闘。著者が死ぬ直前まで原稿を書いたように、鈴木大拙が死ぬ直前まで親鸞の教典の英訳をしたように、死ぬまで自分と格闘する。それが生きるということだ。

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一冊の本が、人生(人生観)を変えるという経験は、これまで何度も何度もしてきた。この本も、間違いなくその一冊となる。知人が癌になったことから、この本を読んだというものも、何か意味があるに違いない。その知人とはあれから会うことも出来ず、どういう様態かも詳しく分からないことがもどかしい。今から思えば、癌を告知されたであろう昨年9月中旬に、何かを守り、何かを捨てようとしたのだろう。今は生き切るための格闘をしていると信じたい。人生は格闘だ。俺も闘う。お前も負けるな。完治することを陰ながら祈りつつ、数年前に私のセミナーで出会えたことに感謝したい。