平野啓一郎氏の『私とは何か』という本を読んだのは2年前。この本で唱えられている ”人間は相手に応じて複数の顔を持って良い" とする「分人主義」の考え方に、私はかなり救われた気がする。

それまで、自分の中にいくつもの顔(人格)があることに苦しんでいた。しかし、平野啓一郎氏は、この本の中で、自分の中に複数の「分人」が存在し、どちらの「分人」も自分であり、付き合う人によって違った自分が引き出されるということを述べている。

自分が相手によって変わるのではなく、付き合う人によって違った自分が引き出される。だから、自分が最も愛する人とは、最もいい自分の顔(人格)を引き出してくれる人だ。だから、平野氏は愛をこのように定義している。『愛とは、相手の存在が、あなた自身を愛させてくれることだ』(同書P138)。これ以上にしっくりくる愛の定義はない。

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では、愛しあって結婚した相手が、嘘や隠し事をしていた場合、その愛は偽りなのか? しかも、相手が名前も出身も戸籍も全てが嘘で、赤の他人になりすましていたら??

この週末に平野啓一郎氏の最新作『ある男』を読んだ。
在日三世の弁護士の元に、事故死した再婚相手が実は全く別人の名前を使って生きていたとの相談を受ける。弁護士も国籍、民族、遺伝の問題に対して少なからず心に傷を負っている。だからこそ(だと思うが)依頼者からの相談に応じ、「ある男」の過去を追いかける。

私は以前、好きになった異性や、結婚を考えている異性の「過去」を知る権利はない、という趣旨のことを書いたことがある。この物語も似たような話といえるかもしれない。言葉で説明された過去が、真実の過去と異なっていたら、その愛は間違ったものなのか。台無しになるのか。むしろ、本当の過去を知らなかった(知らされなかった)からこそ、愛し合え、幸せな人生を過ごせた、ってこともあるのではないか。ここにも「分人主義」の考えが絶妙にブレンドされ、生きる意味を時間軸と断面図の両面で描く。

弁護士の男も、依頼人の女も、小さな子供を持つ私と同じくらいの年齢と思われる。家族を持ちながらも孤独を抱える男、愛する者を立て続けに失った不運な女、そんな男女の心理描写が素晴らしく、そこに自己の生活を投影して感情移入していく。そして同じような境遇の自分もここで救われていく。

気が付いたら最終ページだった、というような小説だった。平野啓一郎氏の小説は初めて読んだが、小説としての凄さ以上に、作家として凄いと感じた。京大在学中に『日蝕』でデビューした際に三島由紀夫の再来と騒がれていたのが懐かしい(あれからもう20年も経つ)。他の作品もまた読んでみようと思う。



ある男
平野 啓一郎
文藝春秋
2018-09-28