自分のことを「言語化」しなさすぎる人は多い。
誰の周りにもいるはずだ。
”よく分からない人” が。

開示しないと「疑い」の対象になる場合がある。開示すれば「信頼」を得られる場合がある。では、自分のことを何でも開示すべきなのか。相手に何でも開示させるべきなのか。

例えば、好きになった異性や、結婚を考えている異性の「過去」を知る権利はあるのだろうか。Yesという人もいるかもしれないが、私はNoだと思う。そんな権利はないと思う。その相手が婚約者であろうが、「過去」に何があったのかはどうでもいいと思っている。夫婦になったってプライバシーというものがあるように、相手の全てを知る権利も必要性もない。「疑い」を始めたら、戸籍謄本から家系図から在学証明書から何から何まで調べなければならない。嘘は付いていないと「信頼」するしかない。

しかし、相手を全面的に「信頼」することが愛することではない。

どんな人間でも、大なり小なり、過去のトラウマ、コンプレックスなどを引きずっている。何か重いものを抱え、これ以上傷付くことを怖がって、色んなものから逃げてきた人もいるだろう。そういった過去を墓場まで持っていく人もいるだろうし、覆い隠すために ”大人の嘘” を付くことだってあるだろう。

ただ、何らかの事情で相手の「過去」を事後的に知ってしまった場合、それを全て引き受けることができるか。 例えば、未婚と思った相手が結婚していたら? バツが付いていたら? 隠し子がいたら? 浮気していたら? 罪を負っていたら? 自分はそれを引き受けることができるか。

相手の「過去」に目をつむって生きていく、という選択もできる。これ以上その相手と関わらない、という選択もできる。無責任な優しさで関係は続ける、という選択もできる。しかし、これらのどの選択をしても、それは「信頼」したことでもなければ、愛することでもない。

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書店でたまたま手に取った島本理生さんの『イノセント』(集英社文庫)という本をこの週末に読み耽っていた。「イノセント」とは純潔という意味だ。最初の数十頁は余りにもフツーの純愛小説的な内容だったので途中で読むのを止めようかとも思ったが、途中から引き込まれていった。後半は唸った。こんな素晴らしい小説に出会えるとは思わなかった。後から島本理生さんが直木賞作家だと知った。納得だ。こんな若いのにこんな本が書けるのは凄いとしか言いようがない。

万能の神でも全員を救ってくれる訳ではない。神でも善人でもない自分が人を救うことができるのか。聖書の教えを所々に織り交ぜながら、重い過去を抱えた人、深い絶望を抱えた人に対し、人生を捧げ、身を犠牲にして救うとはどういうことなのか、救済とは何なのか、そして本当の愛とは何なのかについて教えてくれる物語。

読みながら、自分自身がいかに相手と向き合っていなかったのかを思い知らされた。相手に踏み込んでいないのだ。踏み込むことに恐れているのかもしれない。他方で、自分自身にも過去のトラウマ、コンプレックスなどを引きずっている。そんな過去を覆い隠している。そんな過去は「言語化」したくない。そう、つまり、自分自身も周りから見たら ”よく分からない人” なのだ。根本には、相手が自分のことをさらけ出すこと、また自分が自分のことををさらけ出すことに対し、相手から拒絶されることが怖いという心理があるのだ。自己防衛が働き、相手と距離を置き、自分を殻に閉じ込めている。

かと言って、人間は万能の神にはなれない。完璧な平穏も完璧な人間もこの世にはいない。人の心は弱く、うつろいやすい。神の導きどころか、悪魔が用意いた誘惑に引っかかり続けるのだ。そうやって、向き合わなければならかいものからさらに逃げる。そして「過去」から追いかけられることになる。本書にもそういった3人の登場人物が、不器用に振り回されていく。まるで自分自身を見ているようだ。

本書を読んで、他者とどう交わり、どう生きていくべきかを教えてもらったような気がする。相手の「過去」に対しても、自分の「過去」に対しても、きちんと向き合わなければならない。自分の気持ちに素直になり、相手に気持ちを伝える。さらけ出す。自分のトラウマもコンプレックスも弱さも全てを開示する。それが「信頼」してもらうことになり、相手の心を開くことにつながる。相手の心を力でこじ開けることなんて出来ないし、そういう方法で相手の「過去」を知ることも出来ない。

そういえば、昔何度も読んだ岩田靖夫『よく生きる』(ちくま新書)にも同じようなことが書かれていた。

本当に、人生は苦しいものです。なんの苦しみも負っていない人などこの世の中にはいません。こんなこと人に知られたら大変だなんて思うことも、一つや二つ誰にでもあるのです。そういうことから逃げていたのでは本物にはならない。そういうものを正面から受け止めて、そういうものを自分で背負って、あからさまにさらけ出して生きることが出来た時に、本当の人に出会う可能性が生まれるのです。
(岩田靖夫『よく生きる』(ちくま新書)P98)

それがイノセント(純潔)な愛となるのだろう。それが過去の傷を癒す唯一の方法かもしれない。