知人が突然死んだり、大きな病気を患ったり、そういうことが続いた。
必然的に「死」について考える時間が増えた。人はいつ「死」を迎えるかなんて分からない。「死」は、「生」や「老」の最終地点にあるものではなく、突然やってくるものなのだ。
医学的に「死」とは心肺機能の停止だった。しかし、(事故などにより)脳の全機能が停止し意識のない昏睡状態となっても、人工呼吸器の発達などにより心肺は動き続けることがある。人工呼吸器を外すことはできないし、意識が戻ったという事例もないらしい。そうすると、何をもって人の「死」とするか、という問題が出てくる。
本書を読むまで知らなかったが、日本の法律では、本人か親族が臓器提供に同意しない限り、「脳死判定」がされない。「えっ!そうなの!?」「なんか、おかしくねー??」と思ったけど、日本の法律は臓器提供の意思表示と脳死判定がセットになっている。他の国の法律は違うらしい。「死」の定義が法律によって異なるというのはかなり強い違和感がある。
日本の場合、子供や親族の死を受け入れたくないため臓器提供を躊躇する。そして多くが臓器提供を拒否する(=脳死判定がなされない)。そのため、臓器提供の機会はなくなり、心肺機能が停止するまで延命措置が続けられる。
するとどうなるか。日本にはドナーが少ないから、臓器移植が必要な患者は、それを受け入れてくれる海外へ行くしかない。海外の人から見たら、日本からやってきた患者が大金を払って移植臓器を奪っていくと映る。それによって日本人一人の命が救われるかもしれないが、現地の命が一人救われる機会が失われるかもしれないのだ。海外から非難されるのは当然だろう。
法律がおかしい、考えを改めるべき、という女性がこの小説に登場する(P286、P295参照)。「生きている人間から臓器を摘出することを法律で認めるのは、やはり困難だった」(P353)ことから、臓器移植を進めたい役人としては「その人はもう死んでいる」ことにする必要があった(同)。だから『脳死』という言葉を使ったらしい。しかし、これが話を複雑にしている。
医学的、法律的、倫理的な話は抜きにして、自分の親族の「死」の決定を迫られたとしたら、自分はどういう判断をするのだろうか。蘇生する可能性がなくても本書の主人公のような狂気ともいえる看病をするのだろうか。それとも「死」を受け入れるのか。
重いテーマだが、色々と考えさせられました。