先日行ったシンポジウム『宗教と生命』は、『激動する世界と宗教』と題する連続シンポジウムであり、第3回目の開催でした。

第1回目のシンポジウムは2017年8月に開催され、その記録が先日『宗教と資本主義・国家』として書籍化されました(第2回目のシンポジウムの記録は『宗教と暴力』として4月20日発売予定)。

本書でも、私が大尊敬している知の巨人、松岡正剛・池上彰・佐藤優の3名(+2名)が登壇(登場)し、侃侃諤諤の議論がなされております。

『宗教』『資本主義・国家』という難しいテーマではあるものの、松岡正剛氏が、「(このテーマを)私なりにいい換えると『合理と非合理とはいったい何か』という点にあった」(P144)と一言でまとめたのにはちょっぴり感動。本を読みながら唸り声を上げることが時々ありますが、この一文は唸った。詳しい内容を書くと面白くなくなるので・・・省略します。本書をご確認ください。

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今回は書籍を紹介したかった訳ではありません。池上彰氏と佐藤優氏の対談の中で、佐藤優氏がこんなことを言っているのです。

この場で初めて話しますが、私には、個人的な相談をする相手はほとんどいません。この10年ほどの間にサシで相談した相手は、池上さんだけです。何を相談したかというと、「人生の持ち時間を何に使えばいいか」という問題です。池上さんからいただいた非常に重要なアドバイスは「今は教育と研究を両方しているけれど、60歳までにどちらか一つに選んだほうがいいでしょう。選ぶとしたら教育のほうではないでしょうか」というものでした、私の心をよくわかっているなと思っています。(P72)


この「人生の持ち時間を何に使えばいいか」という問題は、究極の人生相談であり、私自身もいつも自分の問うている問題です。

20代・30代は「24時間戦えますか」のCMの如きガムシャラに働いていましたが、40代になってからは労働時間を極限まで減らしました。昨年、働き方を変えると宣言した通りです。50歳でリタイアするというのもこのブログで度々書いてきた通りです。時間はたっぷりあります。さぁ、ここでどうするかです。

そうすると、私の場合、もう一度ガムシャラに働こうとか、カネを稼ごうとか、そういう気分には全くならない。有難い程に色んな仕事のオファーを頂きますが、本業に関係ないものや、下請的なものは全てお断りしていますし、今後もやる予定は一切ない。

1日中アポイントがない、どころか、1週間アポイントがない、なんて時もありますが、じゃぁ何がしたいのか(何をしているのか)といえば、「教育と研究」ということになる。まったくカネにならないことを、ひたすらやっている。

池上彰氏が『私は今、7つの大学で学生に教えているのですが、これほど経済合理性に反する行為はありません』(前掲書P69)と述べています。私も大学院で講師をやっていたことがあるので、これはよく分かります。東京・新大阪間の交通費や宿泊代は自腹だったので、やればやるほど赤字でした。

人間は経済活動で一定の成果を上げるとお金から解放され、お金から解放されると資本主義的な論理とは違うところので活動をするようになるのでしょう(もちろん、そうはない人も沢山います)。ひたすら教会で教えを説くとか、ひたすら聖書やコーランを読む、といった宗教活動も、資本主義的な論理とはかけ離れた活動という意味では同じことかもしれません。

ここで『合理と非合理とはいったい何か』という話に結び付くわけです。『人生の持ち時間を何に使えばいいか』ということを問うと、合理から非合理、経済活動(資本主義)から精神活動(宗教活動)へと移っていく。合理の中で経済が発展したように、非合理の中で自己が発見・確立するのかな、と漠然と思う訳です。私の愛読書の辰濃和男著『ぼんやりの時間』(岩波新書)には、「ぼんやりは貴い」と書かれています。非合理な時間や、ぼんやりの時間を意識的に持ちたいと考えています。