私のことを「メンター」と言ってくれる方がいるのは嬉しい限りです。私にも「メンター」にしている人が何名かいます。現存するかどうか、会ったことがあるかどうかにかかわらず、心の師、人生の師といえる人は「メンター」です。

本田健さんは、人生は誰をメンターにするかで決まるというようなことも書いていますが、これも激しく同意です。私も以前、真に独り立ちするためには私淑するメンターを持つことが必要だと書きました

自己啓発書などを読むと「モデリング」というコトバが出てくることがあります。メンターにしている人、尊敬できる人、成功している人、そういう人を「モデル」として、その人に成りきるのです。身振り手振りといった振る舞い方、動き方、喋り方、接し方、笑い方、そして生き方までもマネしてみる。そうすると、その人に似てくるのです。なぜ「モデリング」が必要かというと、意識的に行動を変えなければ、習慣は変えられないからです。習慣を変えなければ、人生は変わりません。

「メンター」も、「モデリング」の対象とする人も、何人いてもいいと思いますが、誰を「メンター」にするのか、誰を「モデリング」するのかということはとても大切です。最近若者やベンチャー業界の界隈で「メンター」というコトバが軽〜く使われていることには違和感があります。ちょっと使い方を間違えているような気がします。

私は、「メンター」が現存する方であれば、どんな手段を使っても会いに行くと決めています。そういう行動力だけは我ながら狂っていると自認しています。しかし、他方で、絶対にメンターに弟子入りしないということも決めています。過去に弟子入りしたいと思った人が2人ほどいましたが、熟慮の末、やめました。最短で師を超える道は弟子入りではないからです。同じ理由で、絶対に弟子は取らないということも決めています。その人の人生に責任を負えません。しかし、あらゆる手段を使って私に会いに来てくれる人もいます。私のことを(勝手に)師匠と言っている人もいます。勝手に言ってもらう分には構いませんが、私は弟子とは思ってません。ただ、後生畏るべしで、そういう行動力ある人から学ぶことは非常に多い。そういう人達の多くは、今ではお互いを自分を高めあう同志として連絡を取り合ってます。縁尋機妙、多逢聖因です。