豊かさとは何か (岩波新書)
暉峻 淑子
岩波書店
1989-09-20



以前もこのブログで書いたことがありますが、今の家を購入する前に、100軒くらいの「豪邸」を内覧したことがあります。豪邸は流動性が低いため、その多くが居住中の状態で売りに出ています。そのため、内覧する際は、売主様がどういう生活をされているのかも垣間見ることが出来ます。

それだけの数の豪邸を見て回り、「幸せそうな家庭だな〜」と感じた家はたったの3軒しかありませんでした。

私が見て回ったのは関西屈指の高級住宅街。物質的には十分に満たされた生活を送っている人ばかりだと思います。しかし、彼らの生活の内部を隈なく覗き込んだ結果、「物質的な豊かさ」と「心の平安」は比例しないということを自らの目で証明したのです。言い換えれば、「心の平安」、「心の豊かさ」を得ようと思ったら、物質面以外の「何か」を得なければならないということです。

実際に、私は物質的な欲求はほぼ満たされましたが、大きな幸福感や達成感というものは意外となく、読みたいと思っていた本を書店で見付けた時のような、ささやかな幸せが積み上がっていくような感覚にしか過ぎません。

豪邸探訪をして以降、私は「心の平安」、「心の豊かさ」を得ている人達が、物質面以外に持っている「何か」とは何なのかという探求の旅を続けていた・・・・・・というと大袈裟ですが、その答えを探していたのです。(その答えを探すために、上の3軒のうちの1軒の売主様を訪ねたことが私の人生を劇的に、超絶的に変えたのですが、その話は置いておきます。)

ちょうどその頃に買ったのが、本書、暉峻淑子(てるおかいつこ)さんの『豊かさとは何か』という本。1989年に発売されて以降、ロングセラーになっている本です。暉峻淑子さんはヨーロッパ(西ドイツ)に居住したことがある方なのですが、ヨーロッパからバブル時代の日本をみると、『金持ちで貧乏な国』だといいます。1989年といえば、日本はバブル景気真っ盛りの時。物質的には豊かになっていった「金持ち日本」の時代ですが、海外から日本をみると、日本人はモノのように休みなく働き、家族との団欒も余暇もなく、心のゆとりはなく、心は貧しい、という風に映ったようです(日本の中の人達にもそういう風に映っていたようですが、外から見ると更に痛々しかったのでしょう)。

なんで日本だけ心が貧しいの? という疑問が湧きますが、日本は、「住宅や環境や老後保障が劣悪なので、生活における物的充足感がなかなか得られず、多くの人が財テクに走りやすい社会的背景を背負っている」(P107)からだと指摘しています。確かに、富を貯め込もうという利殖欲は、日本人にも日本の上場企業にも見られます。何兆円、何十兆円というキャッシュを貯め込んでいる上場企業を「けしからん」と批判している政治家がいますし、留保金に課税すべきという主張もありますが、私はその批判も主張もおかしいと思います。将来に不安があればキャッシュを貯めておこうと思うのは当然のこと。利殖欲は単なる成金主義とは異なると思います。

で、暉峻さんは、日本の社会的背景を鑑みて、社会保障や社会資本の整備などの提案をしています。しかし、本書を読みながら感じたのは、「この本が出て約20年の間に何も変わってないじゃないか」ということです。GDPも所得も上がったけど、格差は拡大し、大衆の貧困化がおこり、痛税感が増し、将来への不安は増え、心のゆとりがなく、心は貧しい。富を貯め込もうという利殖欲は絶望に変わり、あちこちで「日本死ね」とシャウトする人が出てくる。アベノミクスを「アホノミクス」という学者が出てくる。ピケティがバカ売れする。

では、本当の豊かさを実現するためにはどうしたら良いのでしょうか?
それは、「豊かな社会の実現は、モノの方から決められるのではなく、人間の方から決められなければならない」(P237)ということであり、そのためには、自分自身が豊かな人生の実現とはどんな生き方なのかを「探求する必要がある」(P240)と。 そう、私が探求の旅を続けたように。

ヴィクトール・E・フランクルが『夜と霧』において、生きる意味とは、(その問いの答えを求めるのではなく)その問いに正しく答えることである、と述べていることを思い出します。豊かさを実現するためには、どんな生き方をしたいのかを答えよ、ということでしょう。